ヴァイオリンの演奏技術と練習について

ここ一、二年、いやそれよりもっと前からヴァイオリンの演奏技術を何とかしたいと思っています。
もちろん改善すると言う意味です。

昔は無意識に出来ていたこと、簡単だったことに躓きを感じたり、うまくいかなくなっていることに気付いて愕然とすることがあります。
かつて得意だった曲が不得意科目になっているのだから情けない。
『昔はあんなに弾けた』と言ってもそれは過去の栄光にしがみついているのであって、今は出来ていないのだから仕方がありません。

実は最近、ヴァイオリンスタンドを買いました。
ヴァイオリンと弓を立てておけるやつ。
弱音器や松脂も載せられます。

僕の仕事の80%はデスクワークなのですが、仕事机の横にこのスタンドを置きました。
載せてあるのは安い練習用のヴァイオリンです。
弓も安いやつ。
二つとも安物なのでケースに入れないまま真夏でもそこに置いてあります、本当は楽器には良くないんだけど。

このような状態でヴァイオリンを置きっぱなしにしておくと、デスクワークの合間にちょっとだけ弾いたりできるのです。
手を伸ばせばそこに楽器があるから便利。
いちいちケースから取り出す手間もない。
壁に立てかけたギターのように気軽に弾けます。

良く使う練習曲集のPDFをネットからダウンロードしておいて、モニターに表示させておく。
こうするとちょっと弾いてデスクワークに戻れる。
でも書き込みしにくいのが難点(不可能ではない)。あああ、iPad Pro欲しいぜ!

そんなにガッツリとは弾きません。
例えばセビシックの指練習を一小節だけとかカール・フレッシュの一つの調の分散和音だけとかゴラのヴィブラートの練習の一つだけとか、とにかく短いのをちょこちょこさらう。
仕事の合間にコーヒーを飲んだりタバコを吸うような感じです。

こんな練習は本当は良くないのかな。
ちゃんとメインの楽器で譜面台の前に立って練習するべきかも知れません。
コンチェルトとか難しめの小品とか何時間も。

でもそんな練習の後に夜のライヴに行くと、大抵昼間の練習で疲れ果てていて良い演奏ができないのです。
デスクワークに戻ったとしても既に練習で集中力を使い果たし使い物にならない。
そのままベッドに直行して全てを怠けてしまう。
これじゃあダメだ。

これから先、長く故障せずに弾き続けるにはこう言うスローな練習の方が良いんだろうな。



さて、先日、どうしても解決できないテクニックの難題があって、SNSを通して知り合ったヴァイオリニストに見てもらいました。
オンラインレッスンです。
「本当は直接会ってレッスン出来ると良いんですけどね〜」とおっしゃいましたが、良いアドバイスを頂けて感謝!
もちろんヴァイオリンの演奏には細やかな筋肉の動きが必要で、実際に先生に腕や手を触って力みや脱力具合を見てもらう必要があるのです。
しかしその方は東京以外にお住まいなので、こう言うレッスンとなりました。

なぜこの方に相談したかと言うと、まずネットに上げてらっしゃる演奏動画の左手のフォームが綺麗だと思ったからです。
結構近くから指や手の動きが見える動画です。
ヴィブラートの手指の動きが柔軟で淀みなく、あーこれは素晴らしいと思いました。
もちろん右手のボウイングもしっかりとした基礎が感じられるし、ポップスの演奏では前々回の記事に書いたようにアタック感もある。
ついこの前はラロのスペイン交響曲の動画もアップされていて、「かっけ〜!」と思いました。
クラシックもしっかり弾けてゲストコンマスの仕事もたくさんなさっているし、演奏の指導もしていらっしゃいます。
僕は教える仕事は殆どしたことがないので何のメソッドもないのですが、普段から指導をしている方ならちゃんと基礎技術の体系がある人だなと思ったのです。

さて、その方がレッスンの終わりに『で、喜多さんはこれが出来るようになって何をしたいんですか?』と聞いてきたのです、真剣な眼差しで。
正直ドキッとして狼狽えました。

それを説明できる言葉をまだ持っていなかったのです。
その技術を習得できるようになれば、表現が豊かになる。
声の色彩が広がる、言葉のボキャブラリーが増える、絵具が増える。
それによって自分の中のファンタジー・思い・内なる音楽をより正確に描くことが出来る。
(内なる音楽って、まだ演奏される前に自分の中に鳴っている音楽のことです。)
そしてその音楽は聴く人を異界へ誘い、魂を揺るがして一瞬を永遠にする。
そんな風には考えていたのです、ぼんやりと。

正確さ。
それは自分の中に響いている音をしっかりと演奏の上で表現すること。
小説家の高樹のぶ子さんが中学生を相手に語った話を舞台袖で聞いていて、とても心に残ったのが『言葉を正確に用いること』のお話。

例えば『悲しい』って言葉があるでしょ?
だけど『お小遣いを減らされて悲しい』と『テストで悪い点をとって悲しい』と『友達に喧嘩して悲しい』と『お母さんが死んじゃって悲しい』の“悲しい”は全部違う。
ただ安易に“悲しい”で済ませちゃうんじゃなくて、その気持ちをもっと正確に表す言葉を探さなきゃならない、日本語はこんなに豊かな言葉なんだから…ってお話だったと記憶しています。
それが文学の始まりなのだそうです。

これ、音楽にも当てはまりますよね?
内なる音にまず耳を澄ます。
けれど出そうとしている音・出した音が本当にそれで良いのか?
内なる音に正確かどうか?

同じスラーでもスタッカートでもテヌートでも、コンテキストによって本当は様々なニュアンスがある。
そのピアニシモは、本当にそのピアニシモで良いのか?
そのクレッシェンドは内なる音に正確か?

この正確さのために必要なのが演奏技術だと思います。
そして素早く身体が反応出来るようにするためにも動作が身体に染みついてなければならない。

今はこのように文章にしていますが、その時は上手く答えられませんでした。
不意を突かれたように投げかけられた問いでしたが、『不意』の時に言葉って出ない。
気持ちや思考って普段から頭の中で良く反芻して、蒸留しておかないといかんと気付かされました。
僕はごくたまーにラジオに出たりインタビューを受けたりしますが、ちゃんと正確に思っていることを伝えられずいつも悔しい思いをしています。
これも同じ理由。
演奏にも言葉にも、やっぱり大事だな、正確さって。

さて、実はこの方は僕より歳下なのです。
確かに先生が歳下だと教わることに抵抗がないわけでもないです。
女性だと余り抵抗もありません。
他の習い事の先生は年下の女性で、とても楽しくレッスンを受けていました‥。

ところが男同士だとちょっと二の足を踏む。
その方は歳下の男性なのです。
だから向こうも年長の僕に教えるのは抵抗がおありだったのではないかと思います。
仕事をしている音楽分野は全く違うので大丈夫かなと思ったのですが、とにかくお引き受け下さったので良かったです。

思うに30代になるともう歳は余り関係なくて、大事なのは何を経験してきたかじゃないかと思います。
その方がヴァイオリニストとして経験を通して体得してきたものは僕にはないし、その逆も勿論ありうる。

ヴァイオリニストの全員がヴァイオリン音楽や技術を100%知っているわけではない。
知っていても多くて30%~40%、いやもっと少ないかも知れない。
しかしAさんが知っている30%とBさんが知っている30%はそれぞれ違う。
Aさんが知らない部分をBさんがカバーしているかも知れませんよね。
皆んな何かを知っていて何かを知らない。

だから歳をとってヴァイオリンが弾けなくなる前に、或いは少しでも長く弾いていられるためにも、自分が知らないことは知っている人or知っていそうな人に聞いておこうと思います。
僕も誰かに教えてくれと頼まれたら、教えられるようにしておきたいと思います。


ヴァイオリン弾きのヘルツォヴィッチ / エヴァ・デマルチク

詩:オシップ・マンデリシュターム
曲:アンジェイ・ザリツキ
編詩:エヴァ・デマルチク



その昔 ヘルツォヴィッチという
ヴァイオリン弾きがいた
楽譜もなしに暗譜で奏で
シューベルトを弾きこなす
まるでダイヤモンド 奇跡のきらめき。

くる日もくる日も 朝から晩まで
トランプのように習い覚えた
永遠のソナタ一曲
いつまでもいつくしんだという 宝物のように。

どうした、ヘルツォヴィッチさん
窓の外には闇と雪…
いいかげんになさい ヘルツォヴィッチ!
人生なんてそんなもの 違うかね?

マロースが軋み唸っているうちに
ジプシーのアコーディオン弾きが
シューベルトを追いかけて
橇の跡をつけるがいいさ。

愛しい音楽があれば
突然の死も怖くはない
あとは…鴉の毛皮外套みたいに
ハンガーにぶらさがるのさ

だいぶ前から ヘルツォヴィッチさん
雪が何もかも転がしちまった。
いいかげんになさい ヘルツォヴィッチ!
人生なんてそんなもの 違うかね?

その昔 ヘルツォヴィッチという
ヴァイオリン弾きがいた
楽譜もなしに暗譜で奏で
シューベルトを弾きこなす
まるでダイヤモンド 奇跡のきらめき。

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