『キンダイチ君はシット深い、めめしい男だ』by 啄木



4/14に四谷三丁目・茶会記で石川啄木の朗読会を行います。
朗読は女優の長浜奈津子さん。
昨日は朝方までLINEで話し合いながら仮の台本を作りました。

今回は『ローマ字日記』と短歌からテキストを選んでいます。
他にも色々と良い文章があるのですが、あまり欲張ってしまうとおっそろしく長い公演になってしまいます。
ホント、宝石の中から宝石を選りすぐるって難しい。

今日は奈津子さんとリハーサル。
奈津子さんは余り体調が良くない中来てくださったのですが(激しい鼻水&鼻づまり)、何回か通すうちに何かが乗り移ったかの様な朗読になりました。
何と鼻づまりが治ったのです!
役者魂、ここにあり。

女性が啄木の書いたものを読む場合、やはり男性とか女性とかの性別が気になるのかなと思っていましたが、それは全く僕の杞憂でした。
とても自然な形で啄木がポンと現れる。
そして短歌を詠んだり、親友との語らいについて回想したり、妻・母・妹に何かを語りかけたり、お金がないことを呻吟したりする。
そこにいるのは長浜奈津子ではなく、石川啄木なのです(そして啄木を通して語られる人々)。
お見事!
奈津子さんに『素晴らしい!これで完成だね!』と言ったら『まだまだ!』と返されました。
でも作品が形になってきて、そこに啄木が姿を現し始めて本当に良いリハーサルでした。

朗読のみの公演ならばどんなテキストでも読めるのかもしれません。
しかし音楽がそこに加わるとなると、ちょっとそう簡単には行かないなと思いました。
これは僕の才能の問題でもあるのですが、啄木の二つある歌集の二つめ『悲しき玩具』にはどうも音楽を感じないのです。
というか、音楽にすると橋田壽賀子ドラマの劇伴みたいになってしまうのです。
なので、『悲しき玩具』は諦めて、『一握の砂』にターゲットを絞ることにしました。
『一握の砂』の言葉たちの方がまだ音楽を秘めている、水底で音楽に繋がっている、音が聴こえてくる。

そして啄木の日記。
やはりローマ字の日記と他の普通の日記を比べると、内面の吐き出し具合が格段に違う。
ローマ字日記は実に赤裸々なのです。

お金が無くなって下宿屋を追い出されそうになった時、親友の金田一京助が自分の蔵書を売り払ってまでして啄木を助けたのは有名な話。
啄木も日記にそのことを書き記し心から感謝している。
ところがその後に書かれたローマ字日記では、恩人の金田一君のことを女々しいとか嫉妬深いとか、めちゃめちゃディスっているのです。
ひっで〜!!!って思うでしょ?
酷いですよ。

だけど良く考えたら、自分が好きな人・尊敬する人・世話になった人でも、感謝しつつもどこか心の片隅で『この人のここが困ったところだ』とか思う時がある。
厳密に言えば、常に100%、その人を好きで尊敬していて感謝に満ち溢れているわけではないと思うのです。
たまには『この人のここが嫌だ』と思ってしまうこともある。
ある点においては尊敬するし感謝するけど、他の点においては嫌いだし軽蔑する、ってことは往々にしてありますよね。
ローマ字日記には、啄木はそんなことも包み隠さず書いたわけです。
死んだ後に皆んなに読まれるわけですが。

例えば僕も誰かに親切にしてあげたとする。
けれど相手が啄木みたいなやつだったりしたら、女々しいとか嫉妬深いとかローマ字日記に書かれているかも知れませんよね。
女子っぽい鍵付き日記帳とかに。
あまり面白くありませんが、こういうことも甘んじて受け入れて行くのが渡世なのでしょう。

今回、テキストの選択をしているのは主に僕なのですが、どうしても“趣味”が反映されて暗く深刻になりがちです。
(たまに他愛ないテキストも入れるようにしています。)
奈津子さんには「テキストから喜多カルの音楽が聴こえてくるー!」と言われました。

あー、確かに暗い方に偏っちゃうなぁと思っていました。
すると啄木の日記に良い文章がありました。
それは『全てを味わい、今を生きよ』というような内容の文章です。
もちろん朗読の台本にも使わせて頂きます。

子供の頃は神童ともてはやされ、何不自由ない暮らしをしていた啄木。
しかしその後に多くの辛酸を舐めました。
歌人としての評価は高かったものの、小説家としては余り認められなかった。
性格が災いして人と対立することも多かったし、お金を湯水のごとく使いいつも前借り&借金生活。
若いのに一家を養っていかなければならず(父親が突然家出)、その上家族が次々と結核に。
薬代さえ無く、生まれたばかりの子供を失い、母を失い、そして自分も若くして死んでしまった。

確かに世間の目から見れば、彼の人生=不幸なのでしょう。
でももし文学の神様がいらしたならば、彼は最も恵まれて祝福された人生を歩んでいたのではないかと思います。

悲しみばかり見えるから
この目をつぶすナイフが欲しい
そしたら闇の中から
明日が見えるだろうか
限り知れない痛みの中で
友情だけが見えるだろうか
(中島みゆき『友情』より)

これは啄木ではなく、中島みゆきさんの歌の歌詞なのですが、この“悲しみばかり見える目“を啄木は持っていたのではないか。
借金の督促状が見えないように目をつぶすナイフは持っていたかも知れない。
けれど悲しみそのものを見る目をつぶすナイフは持っていなかった。
こんな目さえなければ・ナイフさえあれば、と願い続けて終わった人生かも知れないが、徹頭徹尾、悲しみには向き合い三十一文字に表した。

「えー?それで良いの?ハッピーエンドじゃないの?」
「誰も救われないじゃん!」
「ちっとも癒されない!」
多分、文学の神様はそういった種類のご利益は下さらないです。
『こんなの貰っても困る…』的なのが、文学の神様からの贈り物な気がします。

啄木は悲しみを悲しみとしてちゃんと全て味わい、闇の中で“今”を生きた人なのではないか。
彼の短歌を読む時、血の中にDNAレベルの悲しみがみなぎり身体中を駆け巡る。
彼を”センチメンタリズムの人”と分類する人たちがいるけれど、決してそうではないと思う。
啄木って一見悲しみに耽溺しているようで、ちゃんと俯瞰する目を持った怜悧な人だと思います。
“今”を生きていないと、そりゃずぶずぶに耽溺してしまうさ。

2019年4月14日 おとがたり『啄木といふ奴』公演@喫茶茶会記 朗読:長浜奈津子、ヴァイオリン:喜多直毅
2019年4月14日
おとがたり『啄木といふ奴』公演@喫茶茶会記
朗読:長浜奈津子、ヴァイオリン:喜多直毅

出演:おとがたり
   長浜奈津子(朗読・歌)
   喜多直毅(ヴァイオリン)
内容:石川啄木作品の朗読、歌とヴァイオリンの演奏

日時:2019年4月14日(日)13:30開場/14:00開演
会場:喫茶茶会記(四谷三丁目)
   東京都新宿区大京町2-4 1F
   03-3351-7904

料金:予約¥3,700/当日¥4,200(共にワンドリンクオーダー)
ご予約・お問い合わせ:
   violin@nkita.net(喜多)
   nappy_malena@yahoo.co.jp(長浜)

※小学生以下のお子様はご入場頂けない場合がございます。

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