2018年9月17日月曜日

愛、無理。


Twitterにいつも書いているようなことを今日はブログに書いてみたいと思います。

僕は人に冷たくて、他人に対して関心がなく、自分さえ良ければ良いと考えている人間です。
そして思い切り人のことをディスったり、上手く行っている人を妬んだり憎んだりするし、他人の不幸をあざ笑ったりしてしまいます。
もうず〜っとこんな感じで生きて来ていますが、直そうと思ったこともあります。
と言うか、毎朝今日こそはそう言う悪い心を捨てて生きようと思うのですが、電車に乗った途端、ぶつかってきたヤツにヴァイオリンケースをぶつけて仕返しをしたりします。
また、コンビニで楽譜をコピーする時、僕の前でノロノロと何枚もの書類をコピーしている人がいると凄くイライラします。
わざと大きな音で足踏みをして自分の存在を主張し、その人にプレッシャーを与えたりしています。
如此く、朝目覚めた時は『今日こそ清らかな人間でいよう』と心に決めても、8:00とか9:00にはすでに真っ黒になっています。

「喜多さんってそんなに酷い人だったの?」
「もう聴きに行かない!」
「買ったCDも全部捨てる!」

そう思える人はいないでしょう、恐らく。
なぜかと言うと基本的に人間は皆汚れた部分を心に持っているからです。
あなたの買ったCDはあなたと同じように醜い心を持ったヴァイオリニストによって作曲・演奏されているのです。
文句は言えないと思います。
先々のライヴに入れて下さった予約、お願いですからキャンセルしないで下さい。

さて今日、教会で奏楽をしてきました(日本基督教団・板橋大山教会)。
ヴァイオリン一本で賛美歌の伴奏をするのです。
僕は日曜日に仕事が入る事が多く、なかなか礼拝に出席できません。
でもこの奏楽奉仕だけは責任をもって勤めさせて頂いています。

今日の聖書箇所は新約聖書・コリント信徒への手紙1の13章からでした。

13:4 愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。 
13:5 礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。 
13:6 不義を喜ばず、真実を喜ぶ。 
13:7 すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。 

これ、とても有名な箇所です。
で、説教の中で牧師がこの”愛”という単語を全て”私”に置き換えて(箇所によっては付け加えて)読んでみましょうとおっしゃったのです。

そうすると以下のようになります。

13:4 私は忍耐強い。私は情け深い。ねたまない。私は自慢せず、高ぶらない。 
13:5 私は礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。 
13:6 私は不義を喜ばず、真実を喜ぶ。 
13:7 私はすべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。

これは完全に僕と言う人間と真逆です。
こんなふうにはなれそうもありません。
なりたいと思っても、完成までにあと1000年以上かかるのではないかと思います。
輪廻転生をあと一万回くらいしてカルマを落とさないといけません。
だったらこんなふうになるのはさっさと諦めて、悪の道をひた走るのが得策かと一瞬思います。

”愛”を”私”に置き換えて『絶対無理!』って思ったのですから、僕には愛は無理なのでしょう。
多分、人類の全員がこの条件を全て満たすことは難しいと思います。

そりゃ、立派な人はいます。
しかし一生に一度も人を恨んだことのない人なんていないでしょう。
マザーテレサも、キング牧師も、一瞬くらいは『あいつ!!!』とか思ったことがあると思いますよ。

歴史的な偉人でなければなおの事、多かれ少なかれ誰もが間違ったり人に迷惑をかけていると思うのです。
誰かが言っていました、生きているだけで誰かに必ず迷惑をかけているもんだ、って。
僕も周囲から立派だと言われている人に嫌なことを言われたりされたりした経験があります(もちろんわざとではないと思うけど)。

これ、どうしようかと思いました。
忍耐も諦め、情け容赦ない人間のままでいて、人を妬んで生きていこうか。
自分の利益だけを求めて、好きなだけ人から奪っていこうか。
相手を呪い殺すまで恨んだり、自分にとって都合が良ければ不義を選んで生きていこうか。
それも生き方かなと思います。

ただ僕の中には『絶対に損をしたくない』と言う非常にケチな根性があるのです。
いつも懐にそろばんを入れて損得勘定をしている商人(あきんど)っぽい。

この聖書箇所を商売になぞらえてみると、まず商いに忍耐はつきもの。
良い商品を作って、お客さんに知れ渡って、買ってもらえるようになるまで時に長い時間が必要です。
そして礼を失しては取引先の信用を失う。
自分の利益を捨てて他人を優先した方が、やがて自分に返ってくる(良くビジネス書に書いてある)。
『不義を喜ばず、真実を喜ぶ』とはまがい物やクオリティの低いものを買わせるのではなく、本当に良い品を作って買って頂くという意味になるのでしょうか。
その方が安いコストでどうしようもないものをこしらえて売るよりも、結果的には気に入ってもらえるしリピーターも増える。

こう考えると、この聖書箇所も従ってみたくなりました。
損得で考えたら、従った方が結果的には得な気がするのです。
得という言い方よりも”豊か”と言った方が良いかも知れません。
懐も心もあったまる。

とは言え基本的に、こんな立派な”愛ある人”にはなれないと思っています。
これからも心に黒いものは残り続けますよ、死ぬまで。
ただ僕の周りの人たちも心に黒いものを心に残しつつ歩んでいるのだなぁと思うと、あまり相手を理想化しなくなるし期待しなくて済む。
他人に期待しすぎると嫌な思いをすることが多いですよ、やっぱり。
黒い者同士には丁度良い距離があるような気がします。

最後に。
この聖書箇所は使徒パウロがコリント教会の人々に宛てて書いた手紙の中の一部分です、
これ、信徒達に強制的に『お前らもこうなれ・こうしろ』と言っているわけではないのです。
ちょっと安心。
まず人間の愛ではなくアガペー(神・キリストの愛)の素晴らしさを説いている。
そしてパウロが自分自身に対する課題として妥協なき愛を語っており、決して「俺は完全な愛に達したぜい!」と言っているわけではないそうです。

聖書は字面だけ読んでいくとどうも誤解しやすい。
僕は間違って意味を捉えていたり、浅くしか読めていないといつも痛感します。
しかし牧師や解説書の助けがあると、ヘブライ語やギリシャ語の示す本来の意味が分かったりする。
それに伴って解釈も様々な角度から行える(牧師や神父、神学者によっても違う)。
実に深くて面白い書物だなぁと感心します。

僕には真っ当なキリスト教的な記事は書けません。
牧師でも神学者でもないただの平信徒ですから。
興味のある方は牧師のブログをお読み下さい。
板橋大山教会のメッセージ
説教が全て文章としてアップされています。
僕の記事なんか読むよりも断然良いです(テヘペロ)。

賛美歌集に誰かが栞がわりに落ち葉を挟んでいました。

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