最近行った活動の報告(翠川敬基さんとのデュオ、ヴァイオリンソロ、おとがたり『啄木といふ奴』)

忙しい日々を過ごしています。
演奏や作編曲の他にも様々な事務仕事があり、なかなか追いつけません。
こうして年をとっていくのかなぁ。
気がついたら70歳・80歳になっているのでしょうか。
もちろん地球が滅んでいなければの話ですが。

さて前回の記事で三つライヴの宣伝を書きましたが、本日それらが終わりましたのでその報告をしたいと思います。

4/11は翠川敬基さん(チェロ)とデュオでした。
この日のプログラムは第一部に完全即興、第二部に翠川さんや冨樫雅彦さんのオリジナル曲を演奏しました。
やっぱり!
完全即興、めちゃめちゃ良かった!
期待以上でした。

もちろん曲に基づいた即興演奏も面白さがあるのですが、翠川さんとのフリーインプロは更に楽しい。
歌もノイズもある。
人間的な喜怒哀楽の表情もあれば、硬質で冷たい物体もある。
このデュオはもっと行ける!
そう確信した夜でした。

二人の演奏を基本に、たまにゲストを迎えたトリオでも演奏して参りたいと思います。
次回の演奏は7月頃を予定しています。

終演後は西荻窪の老舗居酒屋・戎へ。
この日はやたら腹が減っていて、色々なものを注文したのです。
串焼きサーロインステーキとか。
何だか霊の話で盛り上がりました。
それとキリスト教のダメさについて。

僕がクリスチャンだと知って、『神なんかいない』『宗教なんて必要ない』と言って来る人が多いのです、飲んでる席とかで。
無宗教の人たちです。
ところが、神なんかいないんじゃないだろうか、宗教なんて必要ないんじゃないかと、日頃からグルグル考えているのがクリスチャン達です。
他にも、神様に出来ないこと、聖書の怪しさ・いかがわしさについても考えています。
信仰のない人たちより、もっと疑っています。
疑うことと信じること、両方必要だと思います。

翠川さんとは音楽的な相性が合うし話していても面白いので永くデュオをやっていけたらと思っています。
デュオのCDも作りたい。
身体だけは大事にして欲しいです。

翌日はヴァイオリンソロでした。
この日は編曲が間に合わない曲があって駄目だな〜と思いつつ会場入り(徹夜で書いていたのだが)。
第一部は即興演奏を行い、第二部は曲を弾きました。
ぶっちゃけ、ヴァイオリンソロは苦手で、弾いていて辛いと思うことが多々あります。
でも終わると何故かまたやりたくなるんですよね。

例えば大好きな昭和の歌『遠くへ行きたい』はやっと独奏用の編曲が出来て嬉しかったです。
それとシューベルトの『冬の旅』から『ライアー弾き Der Leiermann』という曲を演奏しました。
これはいつも来てくださるお客さんからのリクエスト。
本当はもう何曲か出来るかなと思っていたのですが、どの曲も結構カッチリした構造と和声進行を持っている。
しかもドイツ語圏のクラシック音楽に特有の“主張”がある。

冬の旅はどの歌も渋い味わいがあり、詩も良い。
旅人の孤独を歌っています。
とても好きな世界なのですが僕がヴァイオリン一本で奏でるのはちょっと難しいと思い『ライアー弾き』だけにしました。

ライアーとは楽器の名前で、ヨーロッパのハーディガーディみたいな絃楽器です。
辻音楽師が街角で弾いているような。

歌詞を読んでみたら、まるで自分の老後かと思わせる内容でした。
冬のキリギリスみたいな感じ。
でもとても素晴らしい歌詞だと思います。
解説と訳を載せたサイトがあったので、リンクを貼っておきます。

Franz Schubert Winterreise Op.89 解説及び歌詞対訳 淡野太郎

ちなみにライヴで弾いた『ライアー弾き Der Leiermann』の解説と訳詞は一番最後に載っています。

さて昨日は女優・長浜奈津子さんと石川啄木の朗読会でした。
自分で言うのも何ですが、素晴らしかったと思います。
充実の公演でした。
もちろん観にいらした方全員がそう思ったとは限りませんが、僕としてはまた是非再演したいと思う内容でした。

盛岡市内に点在する石川啄木歌碑の一つ
循環器医療センター前(旧盛岡中学図書庫跡)

奈津子さんはいつもは椅子に座って静かめに語る感じなのですが、昨日は一人芝居に近い感じ。
全身を使い、様々な声で啄木を呼び寄せていたと思います。
否、啄木や彼に関わる人々が憑依していたのかも知れません。
とにかく素晴らしいパフォーマンス。
お見事でした!

昨日は写真家の前澤秀登さんに撮影をお願いしていましたが、彼が撮影だけではなく照明や会場のしつらえまでやって下さいました。
舞台監督までも!
おかげで実に素晴らしい公演となりました。
この場を借りてお礼申し上げます。

僕は喜多クアルテットの公演を『沈黙と咆哮の音楽ドラマ』と銘打って行なっています。
音楽劇のつもりなのですが、曲順を考えるだけではなく、例えば一曲の一部分だけを抜粋して次の曲の途中に繋げたりとか、編集に近いことをやっています。
一本のドラマを作るための構成です。

今回は啄木の『一握の砂』と『ローマ字日記』からテキストを選び、喜多クアルテットと同じようなやり方で作り上げました(あ、もちろん奈津子さんの意見も入っているのですよ)。
ローマ字日記と短歌の書かれた実際の時系列にはあまりこだわらず、また日記の内容とその後に続く短歌の意味に関連を持たせすぎず、ただ読んだ印象を優先して繋いでみました。
研究者の方には叱られそうなやり方ですが、でも日記文と短歌の間に不思議なエコーを作ってみたかったのです。

そして音楽。
啄木で僕がイメージするのは、下宿屋の狭い部屋で一人横になり裸電球をぼんやりと眺めている彼。
或いはノートに次々に思い浮かぶ言葉を書き留めていく彼。
一心不乱に、です。
また浅草や吉原で散々飲んで騒いで、気炎を吐き、女郎を抱いて、しかし夜更けに春日通りの坂道を本郷まで一人とぼとぼ歩いていく彼。
その時の彼の表情、というか表情筋を想像して音楽を作りました。
その表情筋の動きや緊張・弛緩を自分の顔面でシュミレートすると、何だか音になるのです。
面白いですよね。

今回の作品、僕がテキストを選んだことによって全体に乾いてザラッとした感触になったかと思います。
孤独や苦悩の色が濃かった。
しかし奈津子さんのおかげで色や光が生まれました。
彼女が女性の登場人物(妻・節子や啄木が好いた女郎等)を出現させてくれたのも良かった。

しかしこの公演を通して発見できたものは何だろう?
啄木がこんなに魅力的だった!とか、こんなに素晴らしい歌を残していた!ってこともあるかも知れない。
でもそれ以上に、自分がこの人の残したものに触れる時、まるで柘榴のように心が張り裂けるということ。
自分がそういう人間だということ。
それが発見・再発見出来て良かったです。
とにかく有意義な公演が出来て幸せでした。

次回、長浜奈津子さんとの自主公演は11/16です。
会場は成城学園・第Q藝術。

演目は何と!太宰治『人間失格』です。
何という大作、何というチャレンジ!
皆さん、是非お越しください!

(実はまだ人間失格の読みには入っておらず、今読んでいるのは尾崎放哉です。)

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