石川啄木『食うべき詩』

喜多直毅(ヴァイオリン)
2015年7月18日@もりおか啄木・賢治青春館(岩手県盛岡市)
黒田京子(ピアノ)と共に啄木からインスパイアされたオリジナル作品を演奏した。

このところ石川啄木の本を読んでいます。
4/14に四谷三丁目の茶会記で女優・長浜奈津子さんと行う朗読会のための読書です。
歌集『一握の砂』『悲しき玩具』は大好きでたまに読んでいますが、『ローマ字日記』も面白い。
他に評伝や研究書も山積みなのですが、一冊ずつ味わっていると本当に時間が足りない。

何故、彼の作品に、そして人物にこんなにも心惹かれるのかと思っていました。
じっと手を見つめていると啄木の三行が浮かび上がってくるのです。
上野駅に行くと岩手弁が聞こえて来て、人混みの中に上京したての垢抜けない自分が見えるのです。

しかしそれは『表れ』としての短歌を読んだ感想です。
ここで彼の文学に対する考え方を知ると、もっと僕の中の“啄木ファン心理”が分かるのではないかと思いました。
そこで遭遇したのが以下の文章。
明治42年に東京毎日新聞に掲載された詩の論評『食うべき詩』の一部分です。

そうしてこの現在の心持は、新らしい詩の真の精神を、初めて私に味わせた。
「食うべき詩」とは電車の車内広告でよく見た「食うべきビール」という言葉から思いついて、かりに名づけたまでである。

 謂う心は、両足を地面じべたに喰っつけていて歌う詩ということである。実人生と何らの間隔なき心持をもって歌う詩ということである。珍味ないしはご馳走ではなく、我々の日常の食事の香の物のごとく、しかく我々に「必要」な詩ということである。――こういうことは詩を既定のある地位から引下すことであるかもしれないが、私からいえば我々の生活にあってもなくても何の増減のなかった詩を、必要な物の一つにするゆえんである。詩の存在の理由を肯定するただ一つの途である。

〜中略〜

便宜上私は、まず第三の問題についていおうと思う。最も手取早くいえば私は詩人という特殊なる人間の存在を否定する。詩を書く人を他の人が詩人と呼ぶのは差支えないが、その当人が自分は詩人であると思ってはいけない、いけないといっては妥当を欠くかもしれないが、そう思うことによってその人の書く詩は堕落する……我々に不必要なものになる。詩人たる資格は三つある。詩人はまず第一に「人」でなければならぬ。第二に「人」でなければならぬ。第三に「人」でなければならぬ。そうしてじつに普通人のもっているすべての物をもっているところの人でなければならぬ。

 いい方がだいぶ混乱したが、一括すれば、今までの詩人のように直接詩と関係のない事物に対しては、興味も熱心も希望ももっていない――餓えたる犬の食を求むるごとくにただただ詩を求め探している詩人は極力排斥すべきである。意志薄弱なる空想家、自己および自己の生活を厳粛なる理性の判断から回避している卑怯者、劣敗者の心を筆にし口にしてわずかに慰めている臆病者、暇ある時に玩具を弄ぶような心をもって詩を書きかつ読むいわゆる愛詩家、および自己の神経組織の不健全なことを心に誇る偽患者、ないしはそれらの模倣者等、すべて詩のために詩を書く種類の詩人は極力排斥すべきである。むろん詩を書くということは何人にあっても「天職」であるべき理由がない。「我は詩人なり」という不必要な自覚が、いかに従来の詩を堕落せしめたか。「我は文学者なり」という不必要な自覚が、いかに現在において現在の文学を我々の必要から遠ざからしめつつあるか。

 すなわち真の詩人とは、自己を改善し自己の哲学を実行せんとするに政治家のごとき勇気を有し、自己の生活を統一するに実業家のごとき熱心を有し、そうしてつねに科学者のごとき明敏なる判断と野蛮人のごとき卒直なる態度をもって、自己の心に起りくる時々刻々の変化を、飾らず偽らず、きわめて平気に正直に記載し報告するところの人でなければならぬ。

 記載報告ということは文芸の職分の全部でないことは、植物の採集分類が植物学の全部でないと同じである。しかしここではそれ以上の事は論ずる必要がない。ともかく前いったような「人」が前いったような態度で書いたところの詩でなければ、私は言下に「すくなくとも私には不必要だ」ということができる。そうして将来の詩人には、従来の詩に関する知識ないし詩論は何の用をもなさない。――たとえば詩(抒情詩)はすべての芸術中最も純粋なものであるという。ある時期の詩人はそういう言をもって自分の仕事を恥かしくないものにしようと努めたものだ。しかし詩はすべての芸術中最も純粋なものだということは、蒸溜水は水の中で最も純粋なものだというと同じく、性質の説明にはなるかもしれぬが、価値必要の有無の標準にはならない。将来の詩人はけっしてそういうことをいうべきでない。同時に詩および詩人に対する理由なき優待をおのずから峻拒すべきである。いっさいの文芸は、他のいっさいのものと同じく、我らにとってはある意味において自己および自己の生活の手段であり方法である。詩を尊貴なものとするのは一種の偶像崇拝である。
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 詩はいわゆる詩であってはいけない。人間の感情生活(もっと適当な言葉もあろうと思うが)の変化の厳密なる報告、正直なる日記でなければならぬ。したがって断片的でなければならぬ。――まとまりがあってはならぬ。(まとまりのある詩すなわち文芸上の哲学は、演繹的には小説となり、帰納的には戯曲となる。詩とそれらとの関係は、日々の帳尻と月末もしくは年末決算との関係である。)そうして詩人は、けっして牧師が説教の材料を集め、淫売婦がある種の男を探すがごとくに、何らかの成心をもっていてはいけない。
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全文 『弓町より 石川啄木』青空文庫 

かなり断言的かつ強い言葉で書かれていますが、本当に『そうだー!』と賛成してしまいます。
実は僕もかなり近い考え方で音楽作りをしています。
さぁ、詩人を“芸術家”や“音楽家”に置き換えて読んでみよう。

しかし現代においては、啄木や僕のような考え方でもって作品作りを行うのは、野暮ったくスマートではないのかも知れません。
実は野暮ったいもスマートもなく、ごく自然なことをしているだけなのですが。
皆んな“アート”や“芸術”に対する憧れが強過ぎる。

芸術作品を作ろう!と思った途端、その作品は芸術ではなくなり、“芸術作品みたいなもの”になる。
芸術かどうかなんて関係なく、何だかこうするしかなくて・こんなふうにしてたら・こうなっちゃった、みたいなのを人が芸術と呼ぶかも知れないし呼ばないかも知れない。
そういうものだと思います。

皆んなや自分が思っている“芸術”をモデルに作品作りを行うと、何だかつまらないものが出来てしまう。
どうでも良いものが出来る。
褒めてくれるのは結局その“モデル”を念頭に見に・観に・聴きに来ている人たち。
モデルに似ていたり、ちょっと斜め上だったりすれば褒められる。
経験者が言うのだから間違いありません。

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