シャコンヌの演奏、終わりました!次回は秋ごろを予定しています。

喜多直毅, Naoki Kita

今日・5/10は僕のソロコンサート。
予想を上回る人数の方々にお集まり頂いてとても嬉しかったです!
お越しの皆さん、本当に有難うございました!!!

今日の目玉はバッハの無伴奏パルティータより“シャコンヌ”。
何年か前に一度人前で演奏したことがあったのですが、その時の出来栄えが余りにも酷く『もう二度と弾きません!』と誓いました。

ところが…、昨年の12月、“うたをさがしてトリオ”(齋藤徹さん、さとうじゅんこさん、僕)でシャコンヌを弾くことになり再度チャレンジ。
その時も非常に不満足な内容で悔しさを覚え、今年2月の同トリオによるコンサートに再度挑みました。
この回ではシャコンヌの直前に弦が切れると言うアクシデントに見舞われ、新しく弦を張り替えて挑むも調弦がグチャグチャに…。
これは泣くに泣けない…。
よほど自分の日頃の行いが悪いのかと思いました。

そして迎えた今日の本番。

喜多直毅, Naoki Kita
開場前に猛練習!

多分、今までで一番良く弾けたと思います(これでも)。
しかし、何とも我の強い演奏になってしまった。

実は今朝、色々なヴァイオリニストのシャコンヌを聴いていたのですが、その中で過度な“表現”を混じえない演奏をするヒラリー・ハーンの録音が耳に止まりました。


たっぷりとした良い演奏でしょ?
丁寧。

ヒラリー・ハーンはヴァイオリニストとしての自分を捧げているだけで、音楽はバッハと音楽自身が作っている。
そもそも、バッハ自身、音楽の神様から降りて来たものを“無”でキャッチしているはず。
作曲家としての能力と肉体を神様に捧げているだけ。
ですから、演奏する側も“無”の状態で神様にお返ししなければなりません。
自分を手放すとはこう言う事なのだろうか。

この録音を聴き、今日の演奏の方向性をこちらに修正しようかと随分悩みました。
しかし今日まで練習してきたフレージングや速度の事もあるし、ハーンとは完全に逆な方向で演奏に挑んだわけです。

僕は何故こんなにシャコンヌにこだわって公開の場で弾くのかと自分でも思います。
それはこの曲が自分の“人生の師匠”だと思うからです。
人間じゃなくて楽曲作品を師匠だと思う、って珍しいでしょ?
でも本当にそうなのです。

音楽大学を卒業しているとはいえ、クラシック音楽のフィールドでは一度も仕事をした事のない僕。
だからその分野の方が聴いたら驚き呆れると思います、ハッキリ言って。
そんなのはまだ優しい方で、ケチョンケチョンに貶されるか、完全に無視されるか…。

でも、それでも弾きたい!と強く思う。
自分のその時々の気持や考え方、生き方をこんなに反映する曲はないと思います。

まず手放すこと、委ねることを求められる。
努力や頑張りだけでは到達できないものがあると思い知らされる(勿論、練習は大事なのですが)。
僕がガリガリ弾き始めると音楽が遠のいて行きます。
せっかくバッハや作品の力がそこに現れようとしているのに、僕がしゃしゃり出て阻害してしまうわけです。
自分を引っ込めた時、初めてそこに音楽が姿を現すのだと思います。

そして謙虚さを求められる。

第一に他のヴァイオリニストに対して。
素晴らしいシャコンヌを聴くにつけ、その人の日頃の才能や努力、音楽への愛情に敬意を払わずにいられません。
彼・彼女がどれほど真剣な気持ちでこの曲に向き合い、学んでいるか…、そんな事を思います。

第二に楽曲に対して。
普段から即興演奏だ、タンゴだと言っている自分ですが、バッハを前にこれほどビビる、そして弾けない。
しかし何だかんだ言って、僕はやっぱり西洋のクラシック音楽からスタートした人。
西洋で生まれた楽器を弾いているのです。
だから一流のクラシック演奏家の様にとは言いませんが、でもバッハに対しては敬意を持って学びたいと思っています。
バッハは西洋音楽の基本!

シャコンヌは実に深い精神性を持つ曲です。
でもそれが安易な、安っぽい情緒に流されていないところが素晴らしい。
だからこそ僕の生き方が問われる。
自分が安い生き方をしていないか、低く楽な方へ流されていないか…。
音色、テンポ、アーティキュレーション、フレージング、それらを決める時に、既に生き方の選択が行われているようにも思います。

僕は自分を上手い演奏家だと思ったことは一度もありませんが、でも時には『よっしゃ!』とガッツポーズをとりたくなることもあるのです。
しかし前述のとおり、シャコンヌは“奏者の我”を良しとしないところがある。
演奏家の傲慢さを受け付けない。
これ、実はシャコンヌのみならず、他の演奏(即興演奏含む)に対する気付きにもなりました。
ね?
“師匠”から学ぶことは本当に多いのです。

そして“独奏”と言う事に関して。

僕はアンサンブルで演奏することが殆どです。
クラシックのヴァイオリン音楽の大半はピアノや交響楽団を伴奏として伴っており、ヴァイオリン独奏曲の割合は低いのです。
しかしその数少ない独奏曲の中の一つ(シャコンヌ)がヴァイオリン音楽全体の最高峰とされている。

オルガンやハープシコード、ギター、ピアノ等の和音楽器によるシャコンヌを聴いたことがありますが、やはり原曲のヴァイオリン版とはちょっと違うのです。
単旋律楽器によるシャコンヌでこそ発揮されるものがあるようにいつも思います。

小さなヴァイオリン一本で人間の一生を描く。
しかもその作品は深い精神性を持っている。
普段のアンサンブルや伴奏者とは離れて、一人でそれを行わなければならない。
そして生き方そのものを問われ、答えていかなければならない。

何という素晴らしい仕事でしょうか!
僕はヴァイオリニストで良かったと心から思います!

このシャコンヌという高い山にはまだ登り始めたばかりです。
頂上はまだ見えません。
一生かかっても『極めた!』なんて事はありえないでしょう。
それでも弾き続けたい曲。

次の演奏は秋ごろを予定しています。
それまでにどんな成長を遂げているか、是非皆さんに聴いて頂きたいと思っています!
練習、頑張るぜい!

追記・その一:
もしかしたら、僕は他の演奏の仕事もしていて、それらが充実しているからシャコンヌにも取り組めるのではないかと思います。
黒田京子さん(pf)とのデュオ、齋藤徹さん(cb)のプロジェクトへの参加、等々。
そして何より自分のクアルテット。

喜多直毅クアルテットでは今まで学んだもの・吸収したものを最大限に活かしている。
この仕事は実に楽しく、生きがいを感じさせてくれます。
そして使命感さえ感じています。

それとシャコンヌとどうつながるのか上手く説明できませんが、もしクアルテットが無かったら僕にとってシャコンヌはただの苦行にしかならなかったと思います。

追記・その二:
今日は肩当てを外して弾いたのですが、フォームの乱れが激しかったです(涙)。
おかげで肩から楽器がズルズルと滑り落ちて、何度演奏が止まりそうになったことか…。
こちらも研究・改善に努めたいと思います。