音楽家にとって“真似”とは?

フェルナンド・スアレス・パス、喜多直毅
タンゴヴァイオリンの巨匠・Fernando Suarez Paz氏のレッスン。氏の自宅にて。

じんぼう ―ばう 0【人望】他人から寄せられる信頼・崇拝・期待の念。「―を集める」「―のあつい人」

正直、僕は自分の人望の無さを思い知らされて惨めで情けない思いをすることが多いです。
それに関してはこれまでの行いが悪かったのだろうと思っています。
では心を入れ替えて人望のあつい人になりたいかと言えば、色々と大変そうなので即座になりたいとは言えません。
何が大変って、まず普段からちゃんとしていないといけないし、一人の人間として立派でなきゃならない。
仕事も一生懸命しなければならないし、それなりの結果を出していないといけない。
はっきり言って無理。

人望なんて即座に集まるものではありません。
第三者から見たこれまでの実績とか人に対する態度や言動によって人望は集まるのです。
すなわち自分が『人望のあつい人』になろうと思ってなれるものでもない。
人望が人生の第一目的ではありません。
それが第一目的になっているとしたら、その生き方には他人の目を意識してばかりの嫌らしさを感じます。
人望とはあくまでも他人の評価だからです。
それよりも『誰が何と言おうと自分は好きな事をやって充実している』とか『自分の価値は自分で決める』とかの方が、自律的で良いと思います。

さて本当にごくたまにですが、草むらの中からそっと僕をのぞいていて、密かに評価してくれる人に出会います。
それは極々少人数なのですが。
とても嬉しくなります。
僕はそもそも自己評価が低い自己否定型ヴァイオリニストですので、そりゃ肯定してくれる人に出会えたら嬉しいですよ。

そういう人たちに対して僕はめちゃめちゃ好意的です。
歳の若い人(ヴァイオリニスト)だったら、自分が持っているものを全てプレゼントしたくなります。
食事も奢りたくなる。
上京した人なら家に泊めたくなる。
それと教えるとかではなく、音楽について共に語りたくなる。

正直なところ、あぁ自分に甲斐性があってその人に仕事を回すことが出来たら…と思う。
でもそんなものは無いので、その人の演奏経験やキャリアや経済的なところをお世話することは出来ない。
ここが一番残念なところです。
この歳になったらそういう事が出来て当たり前なのですが。

なんだかんだ言って、仕事のあるところに、直截的に言えば、お金のあるところに人は集まる。
そして人は権力のもとに身を寄せたがる。
それが無いと分かると踵をかえす。
それが人情と諦めつつ、自分には人に分け与え得る何ものも無いので、とても情けなくなります。

一方、わざと僕を無視していると思われる人に気づくこともあります。
興味がなくて無視しているのではなく、意識しつつわざと無視しているのです。
こんなふうに思うのは僕が人一倍自意識過剰な人間だからだと思います。
それと実は僕にも身に覚えがあるのです…。

まずやっている音楽の内容やコンセプト、サウンドから自分と同じ匂いを感じる。
もちろんそんな事を本人や周囲の人々に言ったりはしません。
自意識過剰によるただの妄想だったら相手に失礼だし、僕も大恥をかきますから。
でも勝手に妄想しながら、引き続きその人をこっそり観察します。
そして妄想がただの勘違いと分かったり、僕の見通しが当たったとしても“その人らしさ”が完全に出たら余り観察しなくなります。

一人の音楽家が自分らしさを得る、ワンアンドオンリーになっていく。
その過程にとても興味があります。
『自分を出そう』と思ってもなかなか出せるものではありません。
まずは真似から入るのが普通だと思います。
そして真似と同時に、色々な演奏経験を通して、様々なものを吸収して、その人が形作られていく。
音楽という枠の中だけではなく、人間関係でいろんな事があったり、病気をしたり、成功・失敗を重ねたり。
そういう中で他の人とは違う、その人だけの匂いが出てくるのではないかと思います。
それをこの目で確かめたい。

僕もこれまで多くの真似をして来ました。
他のヴァイオリニストの真似。
そして意識しつつ無視して来たのです(ごめんなさい)。
実は今でも真似したり無視したりしているんですよ。
馬鹿みたいですね。
でもこれはヴァイオリニスト(ソリスト)の気質じゃないかなと思います。

演奏家の真似だけじゃなく、小説や詩や美術や映画の真似もします。
その世界観とか空気みたいなものを真似する。

ある人が言っていました。
誰か(その世界の巨匠とか)の真似をしないようにわざと無視していると、皮肉にもその誰かの亡霊が出てくる。
徹底的に誰かの真似をすると自分自身が現れる。
そりゃ当然です。
オリジナルに忠実でいようと頑張ってもそもそも“人間”が違うのだからコピーになりようがない、必ず“その人”が出てくる。
生きている時間も、心も身体も、考え方も、人生丸ごと全部違うんですから、クローンにはなり得っこないのです。

昔は『自分自身を見つめたり深く掘り下げる事が音楽家には必要』と思っていました。
インタビューでもそう答えた事があります。
確かに自分自身と対峙することは必要だと今でも思います。
しかし最近は自分なんてものは案外空っぽなんじゃないかと思うようになりました。

空っぽでないと何も入って来ない。
では空っぽの中に何が入ってくるのか?
それは他の演奏家から得たアイディアだったり、学んだことだったり、人生経験から得た“味”だったり、幻のような時間感覚だったり。
そして幸運にも天から授かった音楽だったりする。
これらは『自分!自分!』と自分自身に満たされた心には入って来ない。
空っぽにしておかないとスペースがなくて入って来られないのです。

最初の話に戻ると、自分には人望など望むべくもありません。
業界内の政治権力から遠く離れて、平安京から距離のある枯れ野で庵を結ぶ鴨長明みたいな感じでいたい。
松尾芭蕉みたいでもある。
それはそれで良いものです。
『方丈記』みたいな曲を作ろうかなぁ。
今度は鴨長明の真似です。

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