『やめる』ってこと。

喜多直毅
2020年9月3日北海道函館市・石川啄木一族の墓の前にて。

最近思っていること。

それは『時間がない!』ということなのです。
『タスクが多過ぎ』とも言えるし『時間の使い方が下手』とも言える。
能率が悪いのかも。
一生懸命やっているようだけれど、どこかの国みたいに生産性が低いのかも知れません。
(でもその国の国民だから仕方ないよね。)

今まで色々な音楽に携わってきましたが、ここ最近、ずっと同じことをやっていてはマズいと思ってきました。
では手当たり次第に色々なことにチャレンジしたら良いのか。
しかし内面からの強い欲求も感じないので、そんなことはしたくありません。

もしかしたら同じ道の上であっても良いのかも。
それがさらに深まっていったり尖っていったり濃くなっているのであれば。
そしてそれが今最も熱く燃えるものであれば。

ところがそうでもないものに精を出している。
そこまで心底打ち込めるものでもないのに、何だか“義理”とか“都合”で続けている。
これ、絶対ダメですよね。

生き方と音楽が反映し合うものだとすれば、今の有り様はきっと音楽をダメにする。
もっと怖いのは自分自身が塩を盛られたナメクジのように溶けていってしまうこと。
自分が分からなくなってしまう。

義理とか都合のために、本当にやりたいことに割くべき時間もエネルギーも残っていないとしたら誠に馬鹿馬鹿しい限りです。
だって自分の曲(作編曲)をどんどん作りたいし、練習だってしたい。
インプットとして観たい映画も読みたい本もある。
実は大事なことが沢山あるのにそれらに取りかかれずにいたとしたら、それこそ大事な大事な人生を粗末にしていることになる。
本当に人生って大事。

耳の奥にナイフがあり、血でヌラヌラしている。
耳の中にそんなものがあると激しく痛い。
しかしその痛みこそが自分の音楽の源泉だとしたら。
そういう音はどこから響いてくるの?
その生ぬるくて甘ったるい葛湯みたいなものの中にはきっと響いていない。
ナイフを本当に持っていないとダメなんだ。

『やめる』って本当に大事、僕だけではなく皆んなにとって。
僕の方が一方的にやめるのではなく『やめられる』可能性もあるので覚悟しなきゃならないですよね。
やめたり、諦めたり、見限ったり、する方もされる方も大きな痛手を受ける。
ナイフ同士なのであれば刺し違える。

でもこれも仕事のうち。
やめてもやめられても自分のせい。
他人じゃなくて全部自分のせい。
すなわち人生ってかなり自由だってこと。

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