ドイツでの活動報告:皆藤千香子振付作品『We need fiction』に参加~その1~

このブログもすっかり更新が途絶えておりました。
じ、じ、実はこれを書いているのは帰国後(2018年6月21日)。
Facebookには仕事のことは全然書かずに、シチリア島で遊んでいる写真をたくさん載せたので、「あ〜コイツは何もやってない!」と思った方も多いでしょう。
仕事はしていました!
これからブログに書いていきます!

さて皆藤千香子さんのダンス作品(新作)の公演が5月24日〜26日三日間連続で行われました。
僕は千香子さんの作品には既に何度か参加していますが、今回で四作品目。
タイトルは『We need fiction』です。
直訳すれば『私たちには架空の物語が必要である』。

この作品の主題については、構想の段階より(まだ僕が日本にいた頃)千香子さんからインタビューを受け、僕の考えを求められていました。(千香子さんは、演者自らが生み出した動きを蒐集し、それらを構成して一つの作品にしていく方法を取っています。ピナ・バウシュの手法。)
しかし僕はいつものごとく日本での仕事に忙しく、ゆっくり考える時間がなかった。
と言うことで、4/26にドイツに到着し、翌日から参加したリハーサル以降、約三週間このタイトル”We need fiction”にガッツリ向き合う事となりました。

初めての共演者・Milos Sofrenovic(dance)についてはいくつか前の記事で書かせて頂きました。
父親はセルビア人、母親はイギリス人。
済みません、セルビアの国民性みたいなものは余り分からないのですが、Milosのユーモアやテーブルマナーは英国的だと思いました。
(Milosに聞く限りでは、セルビア人はなかなか情熱的な人たちのようです。)

"We need fiction"/Chikako Kaido
Milos Sofrenovic(dance)
Photo by Wiebke Rompel
23. May. 2018
@Weltkunstzimmer, Düsseldorf, Deutschland

彼の故国、セルビアは旧社会主義体制下にあってフィクションに溢れていたそうです。
チトー大統領が如何に偉大な指導者であるか、新聞もテレビも虚偽の報道を行う。
国民には質素倹約を求めながら、大統領は田舎に巨大な別荘を建てて贅沢三昧。
一方で、この国に住まうことがどれほど幸せか、様々な方法で国民に信じ込ませ、国民たちもそれを信じて疑わなかった。
政府の垂れ流す嘘を信じていた時代、人々は案外幸せだったのだそうです。
一部のインテリ以外、『何かおかしい』『これで良いのだろうか?』と誰も思わない。
政府のやり方に不満や疑問を持ち、それを口にすれば即刻刑務所送りです。
だから真実に気がついた者は皆口をつぐんで、他の国民同様にフィクションの中に自分を投げ打つ。
その方が楽だから。
真実に気づかない者たちも、真実に気づいた者たちも、一様にフィクションの中にいたわけです。

セルビアで何一つ疑うことなく子供時代を過ごしたMilos。
やがて体制が崩壊して『私たちの偉大なお父様』と崇めたチトーの実像が明らかになり、Milosを含む国民全員が愕然とし、幻滅した。

日本にも同じ様な時代がありましたよね。
太平洋戦争時代です。

日本が勝つ勝つと皆んな信じて疑わなかった。
前線から送られてくる映像をもとに編集を重ねて作られたニュース映画は、帝国陸軍の勝ち進む姿のみ映して国民を欺き続けた。
ところが実際は酷い有様で、兵隊たちはジャングルの泥沼の中を這いずり回り、飢えやマラリアに次々と命を落としていたわけです。

そして現人神と奉られた天皇も、実は神なんかじゃなかった。
普通の人間だった。
神風なんか吹かなかった。

斯様に結局は真実が明らかになり皆んな幻滅・落胆するわけですが、それでも当時の政府の嘘に騙されて天皇万歳!帝国陸軍万歳!と言っていた頃の国民は結構幸せだったのではないかと思います。
(空襲や米軍の沖縄上陸、広島・長崎の原爆のだいぶ前、戦争が始まって間もない頃のことです。)
そりゃ嬉しいですよね、自分の国がどんどん勝ち進んでるんだから。
『こんな戦争、負けるに決まっている』と思っていた人も多かったと聞きますが、そう言う人たちも表立っては本音を口にしなかった。
憲兵に連れて行かれ拷問を受けるのがオチです。
だから疑いに蓋をして、『政府の嘘をもう信じちゃおう、その方が楽だし』って人も結構いたのではないでしょうか?

こんなわけで、フィクションの中にいる方が楽だし、時には幸せでさえある。
真実より虚偽の中にいた方が生きるのが楽。
何も考えなくて済むし、多勢に身を委ねて流れて行った方が余計な摩擦を生まない。

僕は、基本的に人間の本質は”面倒臭がり”、“怠惰”だと思っています(本当はそれでは困るのですが)。
考えたり、疑ったり、感性を開くのにはエネルギーを必要とする。
結構しんどい、脳や心の“筋力”が試される。
だからともすると人間は考えることを怠る。
何も疑わなくなる。
簡単に手に入る興奮・歓びに慣れてしまい、感性が鈍麻していく。
その方が楽だから。

そこに、例えば独裁者や軍国主義者やカルト教団などが付け入り、フィクションをこしらえて人々をコントロールし始める。
もちろん悪いのは権力側かもしれない。
しかし考えることや疑うことを怠った側にも、何割かの責任があるのではないかと思うのです。
100%被害者ではない。
『私たちは騙されたー!!!』と訴えても、それでは済まない気がする。

例えば北朝鮮。
彼の国では実に酷い統治が行われており、国民は飢えや貧しさに苦しんでいる。
実際、もう誰も金正恩が偉大だとか、素晴らしい指導者だとは思っていない。
国民は改造したラジオやテレビで韓国や中国の放送をこっそり受信して、自分たちの国がいかにクレイジーかしっかり分かっています。
脱北者の証言によると、韓国ドラマのDVDもかなり出回っていて、皆んなで集まってこっそり見ているそうです。
韓流ドラマを通してソウルの繁栄ぶりを見たら、自分の国が如何に遅れているか一目瞭然です。
北朝鮮の人々はもはやフィクションから冷めかかっているのです。

それなのに北朝鮮政府は今だにメディアを通して、いかに自国が強大で豊かか、また金正恩がいかに国民を愛してやまない指導者か、外国の要人からいかに尊敬されているか…、フィクションのでっち上げを続けている。
それはもはや北朝鮮労働党が自らの身を守るためにフィクションを作り続けていると言っても良い。
ところが国民は“騙されたりふり”をしながら、井戸端で陰口をささやき合い、勇気のある人は大き過ぎるリスクを背負いながら脱北に至ります。
こうなると逞しいと言って良い。

翻って我が国。
マイクロスコーピックに観察すると、個人レベルで多くのフィクションが幾重にも重なっていて、一つのフィクションと別のフィクションの境界線も曖昧だったりする。
平たく言うと、個々人がそれぞれのフィクションを信じて生きている。
これは自由主義国だから許されることであって、このフィクションのレイヤーが社会に様々な色彩を持たせ多様性を生み出しているのだと思います。

ところが巨視的に観察すると、どうも政治家等の権威・権力者やマスコミの作り出したフィクション、大企業が提供するフィクションを信じやすいのではないかと思う。
なぜここまで?と思うほど。
勿論、国民全員がそうではありません。
けれど傾向として、疑うこと・自分で資料を集めて考えること・感性を開いて敏感に保つことをしない様に感じます(或いは面倒臭い?)。
これはマズい。
なぜなら権威・権力に付け入る隙を与え、いつの間にか個々人が自由に物事を考え発言する権利を奪われてしまうからです。
政治家・マスコミ・大企業にとっては、何も考えない国民・物言わぬ国民ほど御し易いものはない。
だから何も考えさせない様に・何も言わせない様に、じわりじわりと毒入りフィクションを社会にばら撒いているのでは?と最近思います。
最初は微量であった毒もやがて蓄積し神経を冒す。
こうなると思想的にリベラルであろうが保守であろうが、人間にとって必要な“考えたり疑ったりする力”を根こそぎにされてしまうのではないでしょうか?

実はこれ、日本だけの問題ではないと思います。
“意識高い系国家”のドイツ・フランス・北欧などの国々でも、日本ほどではないにしろ、こうした問題は起こりうるし実際起きているのではないかと思う。
ちなみに英国はEU離脱の是非を問うべく、国民投票を行った。
ところが投票の結果、離脱が決まった後に『そもそもEUって何?』と言った国民がとても多かったと聞きます。
そしてEUが何かを知らずに離脱賛成に投票しながら、後から『え?EUってそういうものだったの?』『結構大事じゃん!やっぱり離脱反対!』と騒いだ国民が結構いたのだとか。
この報道を信じれば、イギリス人って馬鹿になってしまったのでは?と思わざるを得ません、女王陛下には悪いけど。
無知蒙昧で雰囲気に流されると、後から自分自身が困ることになりますよね。
(ここでは英国がEUに留まった方が良いか否かを問題にしているのではありません。)

ちょっと話が逸れました。

先にも書いた通り、考えること・疑うこと・感性を開くことにはエネルギーが必要。
そして継続性も要る。
ところが元来人間は怠惰なもので(僕自身も含む)、楽な方に流されやすい。
そこに耳触りの良いフィクションが投下されると、疑うことなくその中に我が身を投げ出してしまう。
少し違和感を感じることがあっても流れに逆らうのはエネルギーと勇気が要るので、ついついフィクションの中に安住してしまう。
そのフィクションが本来誰のためのものなのか?
実は我々のためなんかではなく、為政者や大企業や何処かの大国の欲得の為なのではないか?
本当に問うていかないととんでもないことになるのでは?と思います(もうなっているかも)。
怖いですね…。

Milosは自身の独裁政権下の日々の体験を元に、揶揄やシニシズムを含んだ動きを作りました。
また隠喩に富んだ素晴らしいテキストを書いてくれました。
僕はそれを元にドキュメンタリー的な音楽を作りました。

喜多直毅 Naoki Kita
"We need fiction"/Chikako Kaido
Naoki Kita (violin)
Photo by Wiebke Rompel
23. May. 2018
@Weltkunstzimmer, Düsseldorf, Deutschland

セルビアのチトー大統領は、オリエント急行の如き豪華な専用列車で国内を縦横無尽に移動していたと言います(金正恩も豪華な列車に乗って北京と平壌を往復しますよね)。
視察旅行の間、下車するたびに町々の子供達が花束で彼を迎えたそうです。
彼が時折行った国内行脚は、フィクションがはがれ落ちないように地方都市をペンキで上塗りしていく様なものだったのかも知れません。
僕は彼の列車が物凄いスピードで駆け抜けていく様を描きました。

そしてもう一曲は首都ベオグラードで行われたであろうパレードの様子を音楽にしました。
ドローンの上で、調子っ外れなファンファーレが鳴り響く。
マーチのリズム。
前半部分は、チトーを褒め称えるために作られたであろうニュース映画(完全なるフィクション)の音楽をポジフィルムとして、そのネガフィルムにあたる音楽となっています。

今回のエントリーでは政治的な側面からフィクションについて書いてみました。
このダンス作品では色々な角度から“フィクション”というものに迫っているのですが、次の記事ではもう少し個人の内面や人生に於いてのフィクションについて書いてみたいと思っています。

喜多直毅 Naoki Kita
作品には色々な小道具・舞台美術が使われました。砂も!
童心に帰って砂遊びをしました。

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